「好きなことで、生きていく」
ちょっと前に、好きなことをして金を稼ぐ”YouTuber”という存在が大きく取り上げられたときに生まれた言葉だ。
それに加えて、最近こんな言葉をよく聞く。
「やりたくないことはやらなくていい」
Twitterを眺めていると、どこかのインフルエンサーがみんな口を揃えてこう言っている。
好きなことで生きていくことは、やりたくないことをやらないで生きていくことと同じだ。
ただ今のぼくはどうか。
つまんない授業。やたら長いレポート。何となく行く飲み会。
思い浮かぶだけでもやりたくないことを沢山している。
けど、やりたくないことは揃いも揃って悪なのか。
やりたいことの中にもやりたくないことは混ざっている
ぼくは将棋を指すのが好きだ。
高校から始めて今に至るまで。5年ちょっと。
何となくで始めた将棋だったけど、それにどっぷり浸かった青春だった。
高2の夏休みは友達と1日12時間ぶっ通しでやったくらい好きだ。
だけど、そんな大好きな将棋の中にもやりたくないことがある。
そう。詰め将棋だ。
「どうやったら将棋が強くなりますか?」と聞いたら、
「詰め将棋を何回も解くことだね」と返ってくることが多い。
ただ何というか詰め将棋は血が通ってないような気がする。
だからやる気にならない。やりたくない。
将棋は盤を挟んで相手の表情とか息づかいを感じるから面白い。
こんなこと、強い人が聞いたら怒るだろう。
それでも詰め将棋はやりたくない。でも将棋はやりたい。
ぼくらはやりたいものの途中にやりたくないことを沢山している。
ただ、やりたくないこととやる必要がないことは違う。
やりたくないけど、やらなければいけないと感じていることはやる必要があること。
自分の目の前にあることはただやりたくないことなのか。
それとも、やりたくないけどやる必要があることなのか。
それを自分の中で整理しなければいけない。
ミクロ的な視点ではなく、マクロ的な視点を持て
「今からフルマラソンを走ってこい」と言われたとする。
普段から運動しないぼくにとってフルマラソンを走り切ることは、今すぐ東京に行って吉岡里帆を口説くのと同じくらい無謀だろう。
ただもし完走すればブログのネタになる。それに自分の自信につながる。
ぼくらはその場の感情に任せてやりたくないことをやらないということではなく、長い目でみてやりたくないけどやることで自分自身が成長できる。
そんなことに全リソースを突っ込むべきだ。
インフルエンサーが全てではない
ぼくらは力のある者に惹かれる。
大昔から人間はそうやって生きてきた。
最近だってそうだ。
Twitterでインフルエンサーが呟いたことは、良くも悪くも燃え上がる。
インフルエンサーの言葉には魔力が宿っている。
だからぼくらはついていきたくなる。
インフルエンサーに従えば、自分で考えることもなくそれを肯定するだけで済む。
こんなに楽なことはない。頭を使わなくてもそれっぽくなるから。
インフルエンサーがこう呟く。
「やりたくないことはやらなくていい」
盲目な人は思考停止して、それをそのまま飲み込む。
ただいくらインフルエンサーと同じように行動しても、その人にはなれない。
自分は自分だ。それぞれ背景にあるものが違う。
だから、それをそのままそっくり真似するのは違う。
それより、自分がやるべきことを選択できる力の方がずっと大事だ。
やりたくないことを選択しよう。