朝8時、昨晩の飲み会で飲みすぎて二日酔いが残りながら起床。
「もう1限行かなくていいや」と安定の自主休講。
その余韻に浸り、そのまま昼過ぎまで二度寝。
「うわ、またやっちゃった…」と絶望するのはお決まり。
締め切りが迫った課題。その前に何気なく開いたYouTube。
「やらないとやばい」とは感じてるけど、関連動画の永遠ループ。
気づいたら日が暮れて、朝から何も食べていないことに気づく。
Amazonで箱買いしておいたカップ麺をすすりながら、さっきの続きを見る。
夜7時頃は新着の動画が出る時間だ。やっぱりYouTubeはやめられない。
風呂に入りひと段落した後、未だに課題を終わらせていないことに気づく。
そこで、今まで何回使ったか分からない必殺技「明日から頑張ろう」を発動。
そのまま現実から逃げるように布団に潜り、1日を終える。
毎日がこの繰り返し。
こんな生活をしている大学生は多いと思う。
実際に大学1年のぼくは絵に描いたようなクズ大学生だった。
当たり前だが何かにおいて結果を出したいなら、周りと同じような時間の過ごし方ではいけない。
「絶対成功してビッグになるんだ」「周りの奴らとは違うことを証明する」
誰しもが結果を出したいと願っている。
今回はその中を出し抜くためには周りと同じように費やしている時間を捨てて、周りと違うことにあてることが必要だという話。
「周りと違う」ことだからこそ価値がある
「周りと同じことに時間を使うことは意味がない」とまでは言わない。
けど今から何かを始めようとしている段階で、わざわざ手をつけるものでは明らかにない。
例えば、大学生がこぞって点数を上げようと躍起になってるTOEICだってそうだ。
上を見上げれば、数えられない位のハイスコアで武装した大学生。
そんな状態でいくら努力したって、その内の1人になるだけ。
もちろんやりたいことがTOEICのスコアが前提の、その先にあるなら話は別だけど。
そもそも周りと同じことをしてたって希少価値ないですし。
いくらTOEICの勉強してても、「あいつTOEICの勉強してるらしいで!」という話題にはならないですよね。
「周りと同じだ」という安心感から自らを解放せよ
確かに、周りと同じであることは心地良い。
「自分がダメになっても周りが何とかしてくれる」と妙な安心感に包まれる。
ただ実際には周りと同じであるということは、いつでも代わりがいるということ。
いつでも代わりがいるということは、いなくなっても何の問題もないということ。
「周りと同じだ」という安心を手に入れたなら、同時に「いつでも取って代わられる」というリスクがついて回るということ。
でもそれってめちゃくちゃ悲しい。
必死に頑張ったことが誰かの二番煎じで、一瞬で取って代わられるって。
それだったらすぐに結果は出ないかもしれないけど、周りと違うことをしていた方がよっぽど充実したものになるはず。
そうは言っても、周りと違うことをするのは相当な勇気がいる。
「うっわ、あいつまた変なことやってるよ」
最初はあちこちから後ろ指を指されるかもしれない。
ぼくもブログを始めたときは、影でごちゃごちゃ言われることがあった。
ただ人とは違う結果を出したいなら、勇気を振り絞って周りと同じことから距離を置くことが絶対に必要。
それで周りから誰もいなくなったら、それはそれで結果オーライ。
ちゃんと周りと違うことをしてるということだから。
異端で何が悪い!!!!!